穴山 信 君。 穴山信友

武家家伝_穴山氏

永禄十年(1567)、信玄の駿河侵攻に反対する嫡男義信が自殺を遂げたことで、義兄にあたる今川氏真は甲斐への塩留めを行った。 同年12月16日に死去、享年55(「武田家過去帳」)。 『家忠日記』天正十年六月四日条• 駿河は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君はの後任として代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという。 は武田親族衆のの娘である於都摩の方()を自らの養女として家康に輿入れさせた。 その後も乱は甲斐の国衆勢力を巻き込んで継続し、永正2年()には信昌・信縄が相次いで死去すると 、家督を継承したと信恵・国衆の間で抗争が展開される。 これは、子の信君も同様であった。 1579年には、江尻城に天守閣を築いている。

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穴山信君(穴山梅雪)とは~武田家の親族衆筆頭と下山城

12月23日には氏真から嫡男・に弔問状が送られている(「楓軒文書纂」)。 同年3月にもの免許を行っている。 1575年、 ・徳川家康との では、穴山家の家臣・川原弥太郎が、敵将・鳥居勝商を生け捕りにしている。 強右衛門が長篠城に帰途の際に信君は、怪しいと勘ぐってこれを捕らえて、強右衛門に対して「援軍は来ない」と述べるように命じた。

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穴山氏

家督は嫡子・が継いだ。 諸系図ではいずれも義武を穴山氏の祖としているが、平山優は諸系図を除けば義武が穴山姓を興した記録は見られないことから、義武以前に在地豪族の穴山氏が存在していており、甲斐守護・武田信武が在地の穴山氏に義武を養子として当主に据えたと推定している。 また、戦国期甲斐国では経営が行われ、武田宗家でもなどの金山衆を掌握していることが確認されるが、信友期の河内領では北部早川流域の黒桂金山や保金山などの諸金山が存在し、代官の派遣や奉公を命じた文書が確認されており、金山のみならずの産出も行われている。 その後、武田氏研究の進捗や新出資料の増加、『』武田氏編や『』の刊行などを経て研究状況が整い、『県史』通史編2ではにより穴山氏・小山田氏の概説が行われている。 円蔵院には信友の(「絹本著色穴山信友画像」)も所蔵されている。

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穴山信風

なお、は18年()に甲斐河内領から3万石分封。 信懸は信虎の本拠である(川田町)の近在に居住していることから、駿河のや相模国の(北条早雲)と関係を持ちつつ、信虎とも友好的関係を築いた両属的立場であったと考えられている。 これにより、穴山氏は武田方に降伏していたと考えられている。

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